給水塔の上に立ち、両手を広げて空を見上げたその男は、まるで今にも飛び立ちそうに見えた。例えば、雲のように。鳥のように。風のように。全てのしがらみを振り捨てて、全ての絆を切り捨てて、どこか遠い、誰も知らない場所へ。
静かに瞳を閉じた男の背中から、翼が生えてきたとしてもなんら可笑しくない様に思えた。
「ジャック!私空を飛んでるわ!!」
……その台詞さえなければ。
それは、近く、遠く
厳かな表情でどこぞの映画の台詞を臆面も無く言ってのけた葉佩に、夕薙は腹を抱えて爆笑し、皆守は銜えていたアロマを落とした。
確かに、そういう目で見ればそんな風にも見えなくも無い。
だが、もう少し空気を読んで欲しいと皆守は思う。
何がジャックだ。何が私空を飛んでるわ、だ。
葉佩はその背丈に見合って声が低い。重低音だといっても過言ではない。それが裏声で、あんな台詞を言うのだ。先ほどまでの、神聖でどこか寂しい空気は全て吹き飛ばされ、後に残るのは珍妙なお笑いムードだけだ。
「葉佩……君も、あの映画を見たのか……?」
まだ笑っている夕薙が、なんとか声を振り絞って尋ねる。
その声に、未だ恍惚と両手を広げていた葉佩が日常の笑みを取り戻して二人を見下ろした。給水塔の縁で見事にバランスを取りながらしゃがみ込む。
「見たよ、こないだ。テレビでやってた。四時間」
そういうと、体重を感じさせない仕草で給水塔から飛び降りた。
まるで猫のようだ。もしくは、本当に背中に翼が付いているか。まぁ、こんな男に翼が付いていたら世も末なのだが。
「君もって事は、ヤマさんも?」
「あぁ……。丁度暇だったもんでな」
「ふぅ〜ん…………甲ちゃんは?」
「何で俺にふるんだ……」
「居るから」
「………………」
落とした衝撃で消えたアロマの火をつける。
ラベンダーの匂いを体一杯に取り込んで、皆守は口を開いた。
「見ていない」
「なんで?笑えるのに」
「いや……あれは、笑うものでは無いんじゃないのか……?」
一応感動作と銘打たれた物を勝手にお笑いに変えた葉佩に、流石の夕薙もツッコミを入れる。そうなの?と問い返した葉佩の目は、真剣そのものだった。
やはり、感性が全くと言っていいほど人と違う。
見ていない、と言った皆守だったが、実は、一度だけ見たことがあった。感動はしなかった物の笑いもしなかったことを覚えている。……その時は、感情が磨り減っていたという理由もあるのだろうが。
「俺もあまり覚えてはいないが、確か、感動物だったような気がするぞ?」
「あぁ、つまり泣け、と」
「……身も蓋も無い言い方だが、まぁそういうことだ」
「ふーん。泣いたの?ヤマさん」
「いや、俺は泣いてはいないが……甲太郎。お前は泣いたのか?」
「え、泣いたの?」
「……お前ら、人の話聞いてたか……?」
見ていないと言ったのは、ついさっきだったはずだ。実際のところ見ていたため、あの発言は嘘なのだが、その嘘を見抜いたとも思えない。
夕薙に関してだけ言えば見抜いているとも言えなくも無いのだが……恐らく、嫌がらせ半分カマかけ半分といったところだろう。葉佩は、ただ単に夕薙の質問に便乗(そしてちょっと曲解)しているだけなのは間違いない。
「なんだ、本当に見ていないのか?」
「当たり前だ。大体、あんな物を見ている暇があるなら、寝ているに決まってるだろう」
「……泣いてないんだ」
「……九龍……お前なぁ……」
いかにもつまらなそうな口調でぼやいた葉佩に、皆守は頭を抱えたくなった。なんだってこうなのだこの男は。
軽い頭痛を覚える皆守の横で、夕薙が必死に笑いをかみ殺している。
ある意味対照的な二人に、葉佩が目を瞬かせた。何故皆守が微妙な表情をしているのか、何故夕薙が笑いをこらえているのか全く分かっていない表情だ。
「何?どうしたの?」
元凶が元凶たる所以は、己が元凶だと全く分かっていないことに由来するらしい。
二人に目線を合わせるよう、膝を抱えてしゃがみ込んだ葉佩の後ろから、授業開始五分前のチャイムが聞こえてきた。
「おっと、そろそろ授業だな。俺は行くが……甲太郎は……サボりか?」
「うん」
「何でお前が言うんだ…」
「え?俺“も”サボるから」
「そうか。……本当に君たちは仲が良いな」
「ん。ありがとう」
「……俺の意思は無視か……?」
勝手に午後の授業をサボる事を決められた形になった皆守がぼやく。まぁ、もとより出るつもりは無かったのだが……人に決められた形になるのは癪に障る。
しかし、癪に障るからという理由だけで授業に出るのは躊躇われた。結局のところ、葉佩に全てを仕切られた様な気もするのだが、それも悪くないように思えるから不思議だ。正常な感覚が麻痺しているからそう思えるのかも知れない。
「じゃね。ヤマさん。また後で」
しゃがみ込んだまま、葉佩が手を振る。あぁ、またな、と夕薙はその姿を屋上から消した。かつん、かつんと階段を下りる音が聞こえる。
その音が完全に聞こえなくなった時、葉佩が動いた。先ほどまで夕薙が座っていた箇所にしゃがみ込んだまま移動する。
先ほどまで夕薙が居た場所、つまりは皆守の隣。
何事かと移動する様を見ていた皆守だが、その姿の微妙さに結局何も言わないまま終わった。
校庭から、恐らく体育の授業であろう騒ぎ声が聞こえ、屋上の静けさを際立たせている。
葉佩も、何も言わない。もとより個人行動の多かった皆守も、相手が何も言わないのならば強いて言う言葉も見当たらない。
突如訪れた空隙に今までに無い安らぎを覚える。隣に葉佩がいるからか、それとも葉佩の珍妙な言葉が聞こえないからかは分からなかったが。
「あのね、甲ちゃん」
「……なんだ今度は」
突然、沈黙を破った声に葉佩を見る。
何時も浮かべている笑みを想像していた皆守を裏切るよう、彼は、表情も無くぼんやりと空を見ていた。目を眇め、眩しそうに。
「雲って、そんなに羨ましい?」
「……なんだって?」
前後の繋がりは全く無かったが、久しぶりに聞いたまともな言葉に、思わず耳を疑う。そんな皆守に視線を向けぬまま、葉佩は虚ろな声で答えた。
「雲。漂うのは、羨ましい?」
何の話だと聞きかけ、皆守は口を閉ざした。あの珍妙な映画話に行く前の、二人で話した時の事を思い出したのだ。
その考えを肯定するように、葉佩の目は、空を漂う雲へと向けられている。
『ただ、風に身を任せあてもなくただ気儘に流れて……なんのしがらみもなく何者にも縛られず、好きなように生きていく……そんな風に人生を送れたらいいだろうな……』
「……俺は、ホントは、そう思う事がが羨ましい」
「…………」
「当ても無くどっかに行くのが良いなって思うのが羨ましい」
「九龍、お前……」
皆守は、突如、葉佩九龍が宝探し屋だ、ということを思い出した。己とは全く異なる生き方を強いられてきた、もしくは自分から望んで強いてきた存在。遺跡に、墓に潜らなければ欠片も思い出すことの出来ないもう一つの顔。
それは、己とは全く違うが、微妙に重なる枷に囚われた生き様。自由と言う名の牢獄に囚われた生き方。
眩しげに空を見上げるその横顔に明らかな孤独を見つけ、皆守は言葉を失った。
風に身を任せあてもなく
なんのしがらみもなく
何者にも縛られず
色々なしがらみが纏わり付いた皆守にとって、その生き方は自由の象徴に思えた。とても、素晴らしい事に思えた。だが、葉佩の浮かべる表情からは、それが孤独の象徴であるかのような悲哀しか汲み取れない。
遠くを見る様眇めた目の端から涙が零れてしまいそうな気がして、皆守は、思いもよらず慌てた。
しかし、慌てる皆守をあざ笑うかの如く、次に葉佩が浮かべた表情は哀しみとは全く無縁の、いつもと同じような笑みだった。
「でも、さっき言ったのは嘘じゃないから安心して。甲ちゃんが一緒に漂ってくれるなら嬉しいし」
「………………」
「甲ちゃん?」
しがらみに≪縛ってもらえる≫事無く、たった一人で虚ろに漂っていたその姿は、同情するには遠すぎて、軽蔑するには近すぎる。
同族嫌悪さえ覚える事も出来ない距離に、一人きりで立ち尽くす葉佩の望む言葉など、想像できるが言うことは出来ない。その言葉は自分が言うべき言葉ではない。
何時もと同じように、全てを知っておきながら理解出来ていない表情を浮かべる葉佩に、皆守は必死の皮肉を返した。
「九龍と一緒だなんてごめんだな。大体、お前が一緒だったら、縛られたままだろうが」
葉佩の浮かべる表情は、きっと心の奥底に隠した自分の顔と同じだろうと夢想しつつ。
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