山、という漢字




葉佩が、つくづく自分の事が嫌になる原因の一つに、どうしようもない事で悩むという現象がある。
いや、自分的には別にどうしようもない事ではないのだ。無いのだが、悩み始めて三日経つと、それがどうしようもない事に思えるという性格なのだから仕方ない。
それは、『山』という漢字を見つめ続けていたら、それが本当に山という漢字なのかどうか不思議になる、という感覚に良く似ている。
サイズが合わなかったために踵を踏み潰し、既にサンダルとしか言いようの無い状態になった上履きを、ぺったんぺったん鳴らしながら彼は歩く。
こういう悩み事ならば瑞麗に相談するしか解決策は無い。
悩み事全てを解決できると思い込めるほどに、葉佩は彼女を信じていた。

ぺったんぺったんと、情けない音が廊下に響く。
今は授業中ということで、廊下に人の姿は無い。しかもここは一階のため、教師の姿もあまり見られない。恐らく二階から聞こえてくる授業の音を聞かないふりをしながら、彼は保健室へと歩いていた。
……と
突然、葉佩の足が止まった。
目の前に、この問題の元凶を見つけたのだ。どうやら、相手はこちらに気づいていないらしい。
にやりと笑うと、葉佩はそっと、上履きを脱ぎ捨てた。

「旋毛、チョーップ!」
「うおっ!!」
「ぎゃっ!!」
「…………」
「………………」

己と同じ背丈かもしくはそれより下の相手に向けてかましたチョップは、見事なまでに避けられた。
靴下のまま走っていたため勢いが止まらず、葉佩は見事、顔から床に突っ込んだ。

「……葉佩……大丈夫か?」
「痛い」
「そりゃぁアレだけ勢い良く転んだらな……。……立てるか?」
「……ヤマさんって、何気に優しいよね……」
「いや、そうでもないが……」

差し出された夕薙の手に捕まり、葉佩は立ち上がった。こうして改めて向き合ってみると、自分の方が少しだけ小さく思える。いや、それは違うか。相手には上履きの分だけ背丈がプラスされているのだ。

「俺の勝ち?」
「……何の事だ」
「いや、こっちの話?」

首を傾げて答える。本当にこっちの話過ぎて、突っ込まれても返答など全くできない次元の話だ。まさか相手も、背丈の事で張り合われてるなんて想像も付かないだろう。
細かい事情など知らなくとも、葉佩の頭の中が宇宙人並みという事は、クラスの中、いや、学校中の周知の事実。夕薙もそのあたりは熟知しているのか、それ以上のツッコミは無かった。

「それより、君は何でこんなところに居るんだ?もう授業が始まっている時間だろう?」
「あぁ、ルイセンセのところに行こうとしてた」
「サボりか?」
「んー。そうじゃなくて。ヤマさんのことで相談しに行こうと」
「…………俺の?」
「うん。そう。ちょっと待ってて、靴向こうにおいてきたから」

でも本人に会ったから別に良いや、と葉佩は笑い、脱ぎ捨てた上履きを取りに音も無く、走ってきた廊下を逆走した。お約束の如くこけるその後姿を見る夕薙の表情は、そこはかとなく複雑そうに見えた。



※※※



「それで」
「ん?」
「それで、君は俺の何を相談しに行こうとしていたんだ?」

上履きを取りに行った時とは違い、徒歩で戻ってきた葉佩へ、さも当然のように夕薙は問いかけた。いや、当事者としては当然の質問だ。
葉佩は時に短絡的だ。人に対して、あまり見せては良くない面も簡単に見せる。例えば、今のように。
しかし葉佩の読めないところは、その事を「良く無い事」とは思っていないところだ。問題を抱え、己に害を与えるかも知れない相手との距離を測ることが出来ない、と言い換えることも出来る。
普通の人ならば、しまった、という表情をするであろう夕薙からの質問にも、葉佩は何の疑問も持たずに口を開いた。

「いや、言ってたじゃない、誰も信じるなって」
「あぁ、言ったな」
「でね、考えたのさ。誰も信じるなの誰もって、どこまでなんだろって」
「…………何?」

とてつもなく、微妙な表情をされた。
それは、何の疑問も持たずに返答したことではなく、どう見ても、返答の内容に対しての表情だった。
いやだから、と葉佩は手を振って話を続ける。

「誰も信じるなって事は、ヤマさんも信じちゃいけないって事になるのかな、と。でもそうしたら、誰も信じるなって言ってたことも信じるなって事になるし。そしたら誰も信じるなの反対で皆信じる事になって、でもさらにそしたら誰も信じるなって事も信じなきゃいけなくなって……って考えてたら、なんだかどうでも良い様な事に思えてきたのさ。でもそれじゃヤマさんに悪いし、どうしようかな、と」

突然、夕薙が吹き出した。
至極真剣な表情をしている葉佩の前で、夕薙は肩を震わせて笑っている。

「……いきなり、何」
「いや……君は、やはり変わっているなと思ってな」
「そうかなぁ……」

上履きを履いた葉佩はやはり、夕薙よりほんの少し背が高い。
しかも、今の夕薙は笑っているため前に体が傾いでる。いつもより視線を下に向けながら、葉佩はほんの少しの高揚感を覚えて首を傾げた。

「でも俺は真剣だけど」
「そこが変わっていると言っているんだ」
「ん〜……ヤマさんが言うならそれでも良いや」

顔をあげた夕薙の目に映ったのは、嬉しそうに笑った葉佩の顔だった。

「ヤマさん。良い人だしね」
「あまり、人を買いかぶってくれるなよ」
「大丈夫。買いかぶったら死ぬほど良い人だから」

先ほどは失敗したチョップを額にお見舞いし、葉佩は踵を返した。足は階段のほうへと向かっている。
その姿に僅かな違和感を覚え、夕薙は声をかけた。

「保健室に用じゃなかったのか?」
「ん〜……。ヤマさんに話してスッキリしたから良いかなって。……ヤマさんは?これから授業出るの?」
「いや、俺は……。……そうだな。久々に出るか」
「そう。んじゃ一緒だね。一緒行こう」

笑う葉佩の顔には曇りの欠片も見られない。
合わない上履きを鳴らしながら近づく葉佩に、何となく、彼には決して叶わないだろう、と言う考えが頭をもたげ、夕薙はため息をついた。





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革靴の踵って、踏み潰せるんですか?(まて)

誰も信じるな、の誰もには、心情的に自分の事も入ってるんじゃないかなと夕薙さん。
葉佩の正体を諸事情により知っていて、それを利用しようと近づいてる事を何となく罪悪感に思っていてくれれば良いと思ってみた。自分を疑ってくれれば、利用することも容易いのにとかなんとか。
微妙に夢見てるけど別に良いのです!うん。



葉佩→夕薙:お父さんもどき。
つまりは「老けてるな〜」ってことです。回りくどい。


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「あっ!」
「どうした、いきなり」
「いや、結局……俺って、皆のこと信じてもいいのかな、と……」
「……そこか……」
「ねぇ、ヤマさん。俺って皆のこと信じてもいいの?」
「さぁな。それは自分で決めることだ」
「え〜」
「君ならば、例え間違っても正解に行き着くだろうからな」
「……矛盾してない?それ……」